私の両親は共働きでしたので、おばあちゃんが母親代わりのように私と弟を育ててくれました。
寝るときはおばあちゃんといつも一緒。
大好きな絵本を何度も何度も読んでもらったり
夜中に怖い夢を見て泣いてはおんぶで外の風にあたらせてもらったり。
私はおばあちゃんの背中におんぶしてもらうととても安心しました。
小学校から大学まで、おばあちゃんに見送られて登校。
帰ればおばあちゃんが笑顔で「おかえり。」と。
食事もほとんどおばあちゃんが作ってくれました。
昔いたヨークシャーテリアのチコの最初のお産で一頭が危険な状態で生まれた時も
お産婆さんをしていたおばあちゃんは手際よく処置を施し無事に育つ事ができました。
おばあちゃんは「人間も犬も一緒よ。」 と。
両親が退職し、父の夢だった穂高での暮らしのために
おばあちゃんは永く住み慣れた横浜を離れました。
おばあちゃんは近所でたくさんのお友達に恵まれていただけにさぞ寂しかったと思います。
初めてツマを紹介したときにはとっても喜んでくれました。
「克之は幸せ者だよ、こんなに良いお嫁さんをもらえて。」と。
モモを迎えてからも穂高を訪ねるたびに、おばあちゃんはとてもモモを可愛がってくれました。
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今年の7月に体調を崩し、母の看病では間に合わなくなり入院することとなりました。
母も看病疲れから倒れる寸前でした。
入院先の病院は穂高の家の近所でしたので助かりました。
毎月お見舞いに行っては「早く良くなってお家に帰ろうね」と言葉をかけると
「うんうん」とうなずいてくれました。
26日の夜に母から電話があり主治医さんから、もってあと数日と言われたと聞き
翌日27日にモモを預け、穂高に向かう車中で母より亡くなったとの知らせを受けました。
穏やかに息をひきとったそうです。
自分のことより、相手のことばかり心配するおばあちゃんだから
「モモちゃんが淋しがってるから早く迎えに行ってあげなさい」って急いじゃったんじゃないでしょうか。
暖かだったおばあちゃんの背中はとてもちっちゃくて冷たくなっていました。
お顔は優しく微笑んでいるかのようでした。
なにも恩返しを出来ないままでお別れとなってしまったのが残念です。
おばあちゃん ありがとう
こんなお話は読みたくないと仰る方もいらっしゃることでしょう。
ごめんなさい。
でも、横浜にいたらきっとたくさんのお友達に囲まれて楽しく暮らせただろうと思うと
少しでもたくさんの方々におばあちゃんを知って欲しいという気持ちが押さえきれませんでした。
おばあちゃんの生まれ故郷は長野県上田市の塩田平にある「なかの」という町でした。
上田交通別所線が走り、南に独鈷山(とっこさん)がそびえる、のどかな田舎町です。
今度モモと一緒に訪ねたいと思います。